輪島市の応急仮設住宅

2024年5月の能登地震取材では、建設が進む応急仮設住宅のコミュニティーづくりに関しても東日本大震災/原子力災害での経験や知識を生かすことが出来るのではと感じた。

輪島市では全42団地中完成したのは27団地で、今年中には全て完成予定。 市のまちづくり推進課の仮設住宅担当者に話を聞くと、「過去の震災の経験を踏まえ、できるだけ同じ地域で仮設入居者をまとめている。保健師が高齢者等を訪問しているが、まだ仮設住宅ごとの自治会やコミュニティ活動支援は始まっていない」とのことだった。

輪島市の仮設住宅には集会所等が必ず設置されているが(近隣の公的集会所が使える場合は除く)、ようやく少数の住民が使い始めたばかりだそうだ。

いくつかの仮設住宅の住民から話を聞くと、入居が始まったばかりであるからか、まだ孤立化を課題として認識する人は少なかった。

最も最初にできた西脇町の「農村ふれあい広場」仮設住宅の入居者によると、同じ地域から入居していても、その地域が広いため知り合いは少ないそうだ。自治会に関しては、仮設内の駐車場問題を話し合えるように、市がリードしてつくってほしいと言う方もいた。

輪島市の中心街から「宅田町大型商業施設横」仮設住宅に入居した人によれば、中心街に震災に耐えた家屋が多くはないが点在していて、そこに住める人は当然仮設住宅には入居できない。仮設には近所の人が固まって住むが、逆に、元の地域に残った人が孤立するのが気になるという話が出た。これは想定外だった。東日本大震災・原子力災害の時とは違う状況なのだと認識を新たにした。

動画は、その話をしてくれた方が仮設内を見せてくれたもの。東日本大震災・原子力災害の時よりも良い作りになっているかもしれない。

2024年5月21日取材
取材:渡辺裕一・五井正明
撮影・編集:渡辺裕一

2024年5月21日 能登の被災地スタディツアーの可能性

金沢から北に車で1時間ほどの石川県羽咋(はくい)市。奥能登よりは地震被害の少なかった地域だが、それでも全壊が65棟、半壊520棟、一部損壊2,820棟(5月22日現在)。近辺の宿は復興関係者で満室だったが、ようやく泊めても良いという「民宿はまなす」をみつけた。

●民宿はまなす
https://www.facebook.com/profile.php?id=100063465763714

民宿はまなす

宿のおかみさんによると、ここの地盤が良くなかったようで建物がゆがみ、取り壊しを決断。いまは震災前より割引きしてお客に泊まってもらっている。

おかみさん自身も、被災後かなり落ち込んで何もできない状態だったが、そこからようやく立ち直り、別な所に建物を見つけて民宿を再スタートすると決めたそうだ。

民宿はまなすのおかみさん

現在でも、この被災した建物に快適に泊まることはできる。いくつかの不具合としては、歪んだドア枠のために開け閉めがきついとか、シャワールームがひとつ排水不調とか。これなら、例えばボランティア等の宿としては十分だと感じた。

この建物での、夏休みに増えるであろう学生ボランティア等の受け入れについておかみさんと話したのだが、その話の中で東日本大震災・原子力災害における「被災地スタディツアー」について紹介すると、とても興味を持たれた。この宿から出発してのツアーもありではないかという話もした。この建物に泊まること自体が震災支援にもなる。

まだ建物の取り壊しは先になるはずなので、それまでは新しい宿と並行して震災支援宿として運営することもできるかもしれない。

現在は、羽咋市より北の宿泊可能な宿には多くの復興関係者が泊まっている。そこに割り込んで被災地スタディツアー客が宿泊するのは難しいだろう。その点、羽咋市は、今夏の段階では海水浴客などの観光客を受け入れるぎりぎり北限になるかも、と言われているそうで、被災地スタディツアー客が泊まりやすい。羽咋市商工観光課によれば、現在は、通常どおり観光客を受け入れているとのことだった。

被災地に行って現場を見てみたいが、ボランティアではない「見物人」になってしまうことに二の足を踏む人は多い。東日本大震災・原子力災害でもそうだったが、東北では積極的に来てほしい、見てほしい、それが応援になるという働きかけをして被災地スタディツアー参加者が増えていった。

この東北の経験や知識を、これからの能登で生かすことができるのではないかと考え、福島県いわき市の里見喜生さんに相談をした。里見さんは東日本大震災・原子力災害で被災した老舗旅館のご主人であり、被災地スタディツアーをごく初期からやっていた方だ。今後何らかの展開があるかもしれない。

2024年5月21日取材
取材:渡辺裕一・五井正明
写真・文章:渡辺裕一

木村紀夫さん大熊町帰還困難区域ガイドツアー2024/1/23

報告:五井正明

大野駅で待ち合せたのは大熊未来塾の木村さん。震災の語り部として活動されている。イマワタ・メンバーの菊池、五井、渡辺の三人が帰宅困難区域を巡ってガイドしてもらい話を伺った。

駅の周りは復旧工事も進められているが津波・震災被害のままの住居も残っており住民を見かけることはない。駅から数百メートルの所にスクリーニング場があり積算線量計を渡された。さらに暫く海方向へ行くと帰還困難区域へのゲートがありここが生活圏の分かれ目だ。

小高い丘を登ると眼下に事故を起した原子力発電所が望める場所。今ではクレーンと多くのタンクの群れが見られる。

当時のままのランドセルが残された小学校(撮影は不可であり映像にはない)。そこに設置されている線量計の数値は2マイクロシーベルト。事故直後の十分の1ほどに下がっているとのこと。学校の教室内は地震避難時のままだ。
(他に津波被災建物、自宅跡、娘さんの捜索現場をガイドしてもらった)
・・・最後はスクリーニング場に戻り線量計を確認返却。2.3ミリシーベルトが累計値。靴裏の線量(ホットスポットの土が付着していないか心配だったが)を計測され終了だ。

今回の話にも有ったが、原発の爆発により住民避難となり、助けられたであろう津波被害者を見捨ててしまった事実をどう受け止めればいいのであろうか?

2024年1月23日取材:五井正明、菊池明実、渡辺裕一

南相馬の西さんと被災した農地

2024年1月22日、南相馬市小高区の西達雄さん宅を渡辺が訪ねました。昨年5月に91歳で亡くなられたと最近知ったのですが、仏壇に手を合わせ、奥さんと息子さんに今までの取材ビデオを渡して見ていただきました。

農業高校の教員だった西さんは、震災前に地元の大井・塚原地区のほ場整備・土地改良事業に奔走しました。事業の完了は2011年3月。まさにその月に、津波で農地は甚大な被害を受け、さらに原子力災害のため全住民が避難することになりました。

西さんは、避難しながらずっと農業の先行きを気にかけていました。南相馬市でも多くの津波被災農地がメガソーラーになったのですが、大井・塚原地区ではその選択をせず、粘り強く農地の復興を目指しました。

また、初めてお会いした時に驚いたのですが、全国でも珍しい「大字(おおあざ)」の歴史、大井の歴史を西さんは本にまとめています。その本の続きとなる農地事業の歴史もまとめたいと生前話していましたが、それを果たすことはできませんでした。

西さんが残した大井の歴史にとって貴重な資料は、ぜひ博物館等に寄託されるようお願いしました。

イマワタで公開されている西さんの取材ビデオは3本です。

【ビデオ1】2013年5月4日〜5日
南相馬市小高区の西さんと記念碑

最初は2013年の取材。原子力災害のため、小高区はまだ居住制限中で、日中の一時帰宅でしか立入りができませんでした。まだ曲がったガードレールやガレキが残り、心血を注いだ事業の記念碑が津波で流されたままでした。これからどうなるか全く見通せない状況で、記念碑に名前があった亡くなった方々について話をできる心境ではなかったでしょう。

【ビデオ2】2016年6月12日
小高区大井の農業・西達雄さん

2本目は、2016年6月の取材。ようやく避難解除され居住ができるようになるのが翌月7月12日からでした。当時の取材記事には「5年という年月のためか、慰霊碑を建てられたからか、西さんの内面で区切りがついたのか、数年来の取材で初めて仲間のことを語ってくれた。 これだけの時間があって、ようやく次の一歩を踏み出せたのかもしれない。 5年間のあいだ、仲間に対するどれだけの思いを持ち続けていたのか。西さんの抱えていたものの重さを考えた」と記しました。

【ビデオ3】2019年5月25日
南相馬市小高区大井塚原の農業「100 町歩農地の担い手を待つ」

3本目、2019年のビデオでは、旧宅の隣に新居を建築して住んでいましたが、大井の帰還住民は震災前の1割、しかも高齢者ばかりという実情に寂しそうでした。ただ、農地の復興が進められつつあり、その担い手を心配するような段階まではきていました。

2024年1月:ようやく作付けが始まったほ場整備事業の対象地

2024年1月:ようやく作付けが始まったほ場整備事業の対象地

2024年の現在、復興政策で小高区に新住民が増える中で、農業を志す人もでてきています。

取材:渡辺裕一(事務局)

飯舘村に住まいを移し、訪問診療を続ける

2021年の暮れ、内科医の本田徹さんは住まいを東京から福島県飯舘村に移し、村内で訪問診療を開始しました。翌春、村で唯一の診療所「いいたてクリニック」に着任。村に住むただ一人の医師です。

クリニックでの外来診療は週2回、1日に30人ほどが来院します。そのほとんどが高齢者。多くの人が糖尿病や高血圧など慢性疾患を抱えています。自分で車を運転して来院する人や家族が送り迎えする人もいますが、それが難しい人もたくさんいます。本田さんは、外来のない日、訪問診療で村を回っています。

訪問診療
花井トヨさん。大正10(1921)年生まれ、101歳。ベッドから出るのは困難で、およめさんの照代さんが日々介護をしています。通院はできないので、本田さんの訪問診療はなくてはならないといえます。

原発事故当時89歳のトヨさんは息子夫婦(文雄さん、照代さん)と県内に避難しました。仮設住宅で6年近く過ごし、2017年3月の避難指示解除でようやくわが家に戻ることができました。しかし、その年、文雄さんが亡くなります。トヨさんの衰えも進んでいきました。

本田さんは、血圧を測り終えるとハーモニカを取り出しました。
「うさぎおーいしー♪」のメロディを吹き始めると、トヨさんは楽しそうに、別の歌をぼそぼそと口ずさみます。照代さんは「いつもだ」とあきれ顔。
餅が大好きで、「これから、おれ、育つから」とトヨさんが言うと、「なに語ってぇ」と照代さんは本田さんと大笑い。診療を終え、本田さんは次の訪問先に向かいます。

草野シゲ子さん宅。(映像には登場していません)

「見上げたお母さんだ」と、本田さんが取材チームに紹介すると、「うまいこと言って」とシゲ子さん。重い障害を持つ息子さんを育てて50年になり、本田さんは2人を診ます。

部屋に通してもらうと、立派な梁が目に入ります。屋根は、もとは茅葺だったとのこと。かつては三世代同居(当時はそれが当たり前)で、野球一家であることを偲ばせる写真が飾られています。シゲ子さんも、朝夕の農作業と大家族の家事に大忙しの合間を縫ってソフトボールで活躍したそう。

「あんな山ん中さ行きたくねえって言ったけど、ほうもいかねえからなあ。姉さんさ手伝って農業してたから、仕事は苦になんなかった」と、原町から嫁いできたころのことを話してくれました。

「お母さん、気い遣わんで」と本田さん。
「お茶だけ。あるもの出してくだけだから」
シゲ子さんはくるくると動き、漬物を出してくれました。
美味い。
「味いいかい。売ってるやつだ。先生はつきものすぎだから」
84歳。働き者ぶりは健在です。
「でも肩が悪くて、注射してあげるって言うんだけど、嫌いだって」
「1回してもらったの。いやー痛かった。痛いけんとも、あと楽だ」
「俺の腕が良くねえんだ。そうかそうか」
シゲ子さんから見て、本田さんは、どんなお医者さん?
「気つかわねくていいや。いい人だ。自分さは合う」

避難先では、どんな暮らしだったのでしょうか。
「何もやんなかった。仕事がねえから、ただ友達と、遊びさ来たり、行ったり」
森林組合で働いていた夫は、最初に避難した先で亡くなりました。
今は息子さんと2人暮らし。
「息子さん、母ちゃんのことが大好きなんでしょ」と聞くと、
「そ、いっつもいっしょだから」

本田さんは、「そのうち、私、杖ついてきますよ、往診に」と言って診療を終え、シゲ子さんは「待ってるよ。はっはっはっはっ」と見送りました。

本田さんの思い
本田さんは、海外、日本の医療の困難な地で活動を続けてきました。東京の病院で勤務する中、東日本大震災が発災し、NPOの支援活動として気仙沼に入りました。 「訪問看護ステーションの車が全部流されてしまっていました。そこで一関に行くと、レンタカー屋さんに訪問看護に使えそうな小回りのいい車があり、3台ぐらい借りたところ、けっこう喜ばれ、いろいろな関係もできていきました」

その後、いわき市の病院に週1回の勤務を開始、東京から通います。避難してきたお年寄りや除染作業に携わる若い人たちを診察する中で、原発事故、避難生活の心身への看過できない負担、疾病の実態を目の当たりにします。認知症になってしまう人がとても多く、精神疾患を患う人もいます。
福島に愛着を持つようになるにつけ、人々が地域で暮らすためにどうすればいいのか。この20~30年間、本田さんがいちばん力を注いできた訪問診療をこの地でできないかとの思いを強めていきました。看護ステーションがないと医者一人では仕事にならない。重い患者さんにずっと関わり続けるには、訪問看護の助けがないとできない。広野町で精神科と内科の病院がステーションを開いたのを聞きつけ、そこに勤務を移しました。
訪問診療への思いをいっそう強める中、2021年秋、飯舘村のあがべご訪問看護ステーションで代表を務める星野勝弥さんの紹介で初めて村を訪れ、移住を決めました。

「私たち自身は薬出すことぐらいしか能はないですけれども、患者さんの生活を見て、何か改善できることがあれば、一緒に働く社会福祉協議会や地域包括支援センターの保健師さんやケアマネジャーさん、デイサービスで見てもらう人、そういうスタッフの人たちと連携をして、この人は今こういう問題で困っているのでなんとかならないかねって相談をして、いい方向につながるようにしたいのです」

本田さんは2023年5月で76歳になりました。
「1日に7~8件、自分で車を運転して回ります。飯舘村っていうのは非常に大きいので、なかなか回るのが大変です。多いと1日に100キロくらい走っています。点滴も採血も一人でやって、山の中に住んでいる人には診察して翌日に薬を届けてあげたり」
夕方帰ってくると、へとへとになっていることもあります。でも、「この村気に入ったんで、医者辞めてもここにいようかなと思っています」
どんなところが気に入ったのでしょう。
「往診に行って、山に咲いている花が四季折々変わります。私、東京の山谷で句会にも入っていて、俳句の材料にもなる。楽しいです」
今、気がかりなのは、避難解除に伴って、国民健康保険・後期高齢者医療・介護保険の減免措置がなくなること。
「いずれ自己負担になるので、受診控えが起きてくるのが心配です」。
本田さんの飯舘村への思いはますます深まっています。

<本田徹医師の足どり>
1947年生まれ。小児科医から出発、青年海外協力隊でチュニジア派遣を経て長野県・佐久総合病で内科医に。1980年代半ばから日雇労働者のドヤ(簡易宿泊所)が多く集まる東京・山谷地区で医療活動に参加。以降、エチオピア飢饉、ルワンダ難民、阪神・淡路大震災、東ティモールなどの支援に携わる。東日本大震災が発災し、東京の病院での勤務とともに2012年からいわき市の福島労災病院で週1回、2019年から広野町で常勤医。飯舘村に移住し、2022年、いいたてクリニックに着任。

飯舘村~人口900人、高齢者が7割
2011年3月の原発事故によって、飯舘村は全村避難を余儀なくされました。避難指示が解除されたのは2017年3月31日です(南部の長泥地区はなおも帰還困難区域とされました)。2017年4月時点で村内は233人(123世帯)でした。
帰還を希望したのは高齢者が多く、住民意向調査では、「戻りたいと考えている」は2016年度で30、40代は1割ほど、50、60、70代は4割強でした。
2022年10月の人口は901人(東日本大震災前、2010年12月6,177人)。65歳以上が7割を占めています。
6町村に設けられた特定復興再生拠点区域は、2022年6月に葛尾村、大熊町が避難解除となり、8月に双葉町、2023年3月に浪江町、4月に富岡町と続き、飯舘村は5月1日に解除となりました。


環境省「除染情報サイト」(アクセス日2023.7.14)

レポート : 森 透 ( 2023.7.18 )

【360VR】76歳の医師は生きる場所を村民と共につくる

2022年12月取材。福島県飯舘村に移住した本田医師は、村在住のただひとりの医師。飯舘村は、原子力災害で全村避難を強いられ、現在の人口は、震災前の2割となってしまった。村人と共に「生きる場所」をつくる医師の生き様。 YouTube で見る

取材:五井正明、森透、渡辺裕一
撮影・編集:渡辺裕一

< 2021/7/23 福島見学ツアー 360 度 VR 生中継 >

「 アンダーコントロール 」からも「 復興五輪 」からもかけ離れた東京オリンピック。2021 年 7 月 23 日開会式当日に福島ツアー 360 度 VR 生中継を行い、五輪スタジアム周辺に VR 映像を届けました。ほんとうの「 復興五輪 」を取り戻す試み、その記録です。

※ 自宅等でスマホや PC で簡単に見ることができます・Google Chrome ブラウザでの視聴を推奨します

【 7.23 福島 360 度 VR ツアー 】
東日本大震災・原子力災害伝承館と周辺

福島県双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館には「 原子力明るい未来のエネルギー 」という広報掲示が保存されています。隣接した双葉町産業交流センターからは 11 年後の被災地の姿が見渡せます。

【 7.23 福島 360 度 VR ツアー 】
双葉町に通うバーガーショップ店長

福島県双葉町にできた双葉町産業交流センター。その中にあるバーガーショップ『 ペンギン 』の店長・山本さんに、11 年後の福島の状況についてお話しを伺いました。

双葉町民の山本さんは震災後、横浜に避難。まだ双葉町内には住めないので、店までいわき市から通っています。

【 7.23 福島 360 度 VR ツアー 】
原子力災害と地震の爪痕・双葉駅周辺

これは福島県双葉町の中心部周辺。11 年後の被災地の姿です。

【 7.23 福島 360 度 VR ツアー 】
東日本大震災・原子力災害伝承館の学芸員インタビュー

福島県双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館・学芸員の方に震災後 11 年後の福島の現状についてお話しを伺いました。

< 2021/7 福島ツアー生中継 Zoom 版 >

【 福島ツアー生中継 1 】
今も続く原子力災害と地震の爪痕・双葉駅周辺

【 福島ツアー生中継 2 】
開会式当日のオリンピックスタジアム周辺、双葉町民に聞く

【 福島ツアー生中継 3 】
双葉町産業交流センター

センターの屋上から福島第一原発を見る

東日本大震災・原子力災害伝承館の学芸員に聞く

【 福島ツアー生中継 4 】
東日本大震災・原子力災害伝承館〜東京の様子〜双葉町市街

【 福島ツアー生中継 5 】
双葉町から移動し富岡町へ〜福島や電力についての説明

【 福島ツアー生中継 6 】
いわき市の原子力災害考証館から

1)館長里見さんからの話

2)震災の語り部の話

3)「復興五輪」のまとめ

留学生によるドイツ/コロナ報告

ドイツ在住の留学生、池上綾音さんの 2020 年 4 月 25 日の報告。進行は中川真規子さん。

リスク等を冷静に判断し、現場を見たいという志のもとドイツに残った池上さん。そのような人が世界各地にいるのではないでしょうか。

報告は日本語で行い、インドネシア語通訳が付いています。YouTube 日本語字幕を整備予定。

いま私たち市民にできることプロジェクト/リブートの趣旨や目的

現在の新型コロナウイルス・パンデミックを受けて、東日本大震災時に「いま私たち市民にできることプロジェクト」として始まった市民によるメディア活動をリブートしよういうことになりました。

目的としては、普通の生活者同士の直接対話・取材をオンラインで行い、それを世の中に公開し、事実を共有することです。地理的な制限を超えた普通の生活者による直接対話・取材によって、大きなメディアの公式情報ではなく、直接得ることが難しい個人からの生の声、各国の市民の実情を公開していきます。

ニュージーランドのコロナ対応報告

ニュージーランドのオークランド在住、増田萌那さんの報告。進行は森透さん。

いち早くウィルスとの闘いに勝利宣言をしたニュージーランド。その理由は、情報公開、信頼を生む指導者の発信力、安心できる制度などによるようだ。

2020 年 4 月 19 日に行った第 2 回目の対話取材セッションを編集した全部バージョンです。

いま私たち市民にできることプロジェクト/リブートの趣旨や目的

現在の新型コロナウイルス・パンデミックを受けて、東日本大震災時に「いま私たち市民にできることプロジェクト」として始まった市民によるメディア活動をリブートしよういうことになりました。

目的としては、普通の生活者同士の直接対話・取材をオンラインで行い、それを世の中に公開し、事実を共有することです。地理的な制限を超えた普通の生活者による直接対話・取材によって、大きなメディアの公式情報ではなく、直接得ることが難しい個人からの生の声、各国の市民の実情を公開していきます。

インドネシア・アチェ、ニューヨーク、ニュージーランド、日本間のビデオ対話取材

2020 年 4 月 15 日 試験的に行った第1回目の対話取材セッション

English subtitles available

(聞こえない人のために日本語字幕を用意しています。字幕をオンにしてみてください。英語字幕もあります)

インドネシア・アチェ、米ニューヨーク、ニュージーランドのオークランド、日本から国境を越えて 11 名が参加。この続きは第 2 回目「ニュージーランドの状況」へ。

いま私たち市民にできることプロジェクト/リブートの趣旨や目的

現在の新型コロナウイルス・パンデミックを受けて、東日本大震災時に「いま私たち市民にできることプロジェクト」として始まった市民によるメディア活動をリブートしよういうことになりました。

目的としては、普通の生活者同士の直接対話・取材をオンラインで行い、それを世の中に公開し、事実を共有することです。地理的な制限を超えた普通の生活者による直接対話・取材によって、大きなメディアの公式情報ではなく、直接得ることが難しい個人からの生の声、各国の市民の実情を公開していきます。

南相馬市小高区大井塚原の農業「 100 町歩農地の担い手を待つ 」

いま私たち市民にできることプロジェクト、今回の取材は久しぶりに福島の南相馬・浪江・富岡・大熊と行ってきました。

その中で、南相馬市小高区大井塚原の農業関係者、西達雄さんと島高明さんにお話を伺いました。事故からの 8 年間は、各避難者の避難先での生活が根付く期間でもありました。

このため、実際に帰宅が解除されても、もはや農地の担い手が戻る機会もなくしています。

島さんは「 100 町歩に及ぶ土地が農業の担い手を待っている 」と話します。

「 自分は高齢なので自らは第一線に立てないが若い担い手が出てくれば応援したい。このため農業器具も保存している 」と。

先人が苦労して受け継いできた地にもう一度農業を再開したいと語ってくれました。

また南相馬市小高区では、意外な出会いもありました。

小高で宿泊した「 双葉屋旅館 」のご主人小林さん。

いろいろと雑談をしている中で、様々な活動をされていることを知りました。

放射能測定センター・南相馬『 とどけ鳥 』では、事故以来、各地域の放射線量の計測や農産物の検査を行い公表をされています。次回は正式な取材としてご報告したい人物でした。

記事 : 五井正明
撮影・編集 : 渡辺裕一

福島県大熊町 : 8 年前の産みたてたまご

2019 年 5 月、福島県大熊町を取材。

町が住民帰還のため、産業施設や役場新庁舎を作っていた一方で、放置された家屋や、8 年前の産みたてたまごが生々しい。

取材 : 五井正明・渡辺裕一

新たな価値観の必要性 ( 2018.5.13 取材 )

2018 年 5 月 13 日、6 年ぶりに宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館 山内宏泰さんを取材しました。3 本のインタビューを掲載します。今回は青森・八戸から気仙沼まで様々な震災遺構を取材し、その最後にリアス・アーク美術館を訪問しました。

なお今回の取材にあたって、山内さんからは、以下のような文章を寄せていただきました。

< 新たな価値観の必要性 > リアス・アーク美術館 副館長 山内宏泰

東日本大震災の発生から 7 年が経過した現在、当館では、「災害の記録は自然界における人間の立ち位置を確認するための 1 つの基準、指針である」との認識を持ち、災害資料展示の主題を「地球環境、自然環境との共生を考え、気候風土に根差した文化を醸成していくこと、その結果として減災が実現されたまちを、地域住民の手で時間をかけて築き上げていくこと、そのために必要な資料を提供すること」と再定義しています。それはつまり、「自然との戦い」といった発想に終止符を打ち、「自然と分け合う生き方」を考えようとする意識の提案です。

現在行われている被災地復旧、復興事業に於いては自然災害の原因を一方的に自然現象に押し付け、人間側の問題を棚上げした考えが基本とされています。ゆえにその発想は原因となる自然現象を跳ね除ける構造物の建設という形で具現化され、防災、災害復興という旧来の思想を未だに踏襲しています。かつては無知ゆえに自然を侮り、ヒューマンエラーを蓄積してしまいましたが、現在は多くを知った上でなお、その過ちを強引に繰り返そうとしています。その先導者たちが根拠としている法制度は、日本の近代化を推進するために整備されてきた旧来の価値観であり、現在必要とされている創造するべき未来の価値観とは、かけ離れた古い思想に裏付けられています。

「災害復興」という言葉は関東大震災以降に定着したものです。旧来の社会構造を否定し、近代国家、新国家を創ろうとしていた大正12年当時、関東大震災からの復旧事業は「都市計画法」に則って行われたとされています。著しい人口増加に対応するための刷新と開発を目的とする都市計画法の適用を受けて行われた「帝都復興事業」は、災害を契機に都市公共インフラの近代的整備を施す、いわゆる災害復興の成功例とされ、後続の災害におけるモデルとされました。

三陸沿岸部でも、明治三陸津波の際には無かった復興という概念が、昭和 8 年の三陸津波被害を機に適用され、現在まで通ずる災害復興事業、法整備が具体化されました。そして戦後は、戦災復興という新たなイメージをまとい、高度経済成長政策を追い風に暴走しました。その結果が津波被害の拡大を招いた沿岸部の埋め立てや開発、原発事故、地域独自文化の衰退につながったのではなかったか、私はそのように考えています。

我われは過ぎ去った時間を変えることができません。しかし、現在まで続いてきた負のループを断ち切ることで未来は変えられるはずです。我われは過去を見直し、現在に正対し、新たな価値観を築いていかなければなりません。そのためには過去から現在へと積み重ねられてきた地域史、文化史、災害史と、それを包み込む地域の気候風土、自然環境を学ぶことが必要不可欠です。これからの世界を創造していく皆さんには、ぜひ、そのような意識を持って多くのことを学んでいただきたいと思います。

1. 震災7年後・子どもたちが震災を伝える力

震災の記憶の伝え手として一番貴重なのは将来再び起きるであろう災害の時まで語り継げる存在としての子供たちです。

その子供たちに対して被災地としてどう向き合わなければならないか。

そこには悲惨な思いから少しでも遠ざけたい優しさと、このような被害は二度と繰り返さないために伝える子供たちの存在は大きいとする立場があります。学校教育とは何のためにどうあるべきか?ご覧の皆様はどうお考えでしょうか?

2. 気仙沼の防潮堤

地元復興のシンボルとして取り上げられる防潮堤。復興の進み具合としてよく報道されその存在を傍から見ていれば矛盾を感じることはありません。

しかし地元の正直な意見はどうなのでしょうか?

防潮堤から見る、地元の人にとっての復興のあるべき姿の一端を教えて頂きました。

3. 震災遺構を残すには覚悟が必要・だから共徳丸は残らなかった

震災遺構。

遺構とはその存続に命がけで取り掛からなければならないもの。今回のお話を伺って感じたことです。

人間の愚かさを警告し、人の命を守るために役立つことを願います。

そして多くの人がそのことに想いを馳せる場である事を願います。

文章 : 五井正明
取材 : 五井正明 ・ 渡辺裕一

大人は子どもたちへの責任を果たしているのか

2017 年 4 月 29 日、福島被災地ガイドでいわき市四倉住民の猪狩弘之さんを取材。いわき市の四倉地区は福島第一原発から約 35 キロにあり、原発災害の後、多くの人が避難しています。避難区域外であるため、避難者は「 自主避難者 」扱いになります。

2017 年 3 月で、原発災害の「 自主避難者 」3.2 万人の住宅支援が打ち切りになりました。 そして、2017 年 4 月には「裁判でも起こせばいい」「東北で良かった」と言い放った今村復興大臣が辞任しています。福島浜通りで話を聞いた全ての人がこの発言に対して、ひどすぎると怒っていました。おそらくこの大臣は本当の気持ちを正直に言ったのだろう、という人もいました。

東京オリンピックは電力をたくさん消費する、新潟の原発再稼働はかなり難しくなったので、東電のターゲットは福島第二原子力発電所になるかもしれないと、猪狩さんは語りました。復興の恩返しに再稼働しようという誘導が、マスコミ等を使って巧妙に始まるかもしれないと危惧しているそうです。

インタビュー : 五井正明
撮影・編集・文章 : 渡辺裕一

「 怒り 」を正しく伝えることが日本を良くすること : 猪狩弘之さん

猪狩弘之さん

2017年4月29日、福島の被災地ガイド猪狩さんに、自身が住むいわき市四倉地区を案内いただきながら話を聞かせていただきました。

震災時のボランティアの方々には深い感謝の気持ち、またそれらをきっかけに広がった人と人の交流の輪のすばらしさがあった。

猪狩さんのお話に「泣いて、笑って、怒って、生きる!」という言葉がありました。この中の「怒る」という事の大切さ、そして正しい方向に向かって「怒る」ことの必要性に感銘を受けました。

震災直後の「絆」の流れとは裏腹に、原発事故が地域を分断し、さらに賠償が地域の人を分断している事実。
汚染が家族世代を引き裂き、夫婦関係を傷つけ、親子関係を複雑にしている事実。
国はオリンピックまでも原発事故の鎮静化PRに利用しようとしている姿勢。

これらの陰に隠されようとしている苦難を強いられている人たちの存在を、私たちは口を閉ざさず絶望せず諦めず「怒り」を正しく伝えることが日本を良くすることに繋がっていくはずであり、そのことがご自身の被災者としての使命だと語って頂きました。

また、東北を被災地一色に語らず、この福島の地は原発事故という要因の存在が他県の復興と異なる事を理解し目を背けないでほしい。一部で取材される避難解除後帰還者の美談の陰に存在している、さまざまな苦労をさせられてきた、また現在でも苦労を背負っている人たちの存在をけっして埋もれさせないでほしいと語って頂きました。

取材・報告 : 五井正明

※ 猪狩弘之さん :
「 涙活 」ふくしま代表、復興支援「 ふく風 レオ 」代表、被災地ツアーガイド

速報 : 福島県浪江町請戸「 廃棄物仮置場 」の火災

2017 年 4 月 29 日、取材中に遭遇した福島県浪江町請戸「廃棄物仮置場」の火災。避難解除された地域を見回りしている巡視員は 17:45 に通報、20:40 鎮火。現場は 8000 ベクレル以下の災害廃棄物を分別仮置きしている場所で、主に布類やフレコンパックが焼けた。警察と消防によれば原因は落雷と思われる。

ちなみに、同時期に浪江町の帰還困難区域で山火事が発生している。火事によって放射能自体が増減することはありえないが、火や風によって放射性物質は拡散する。だから慎重に測定をすることが必要になる。

どの程度の量の放射性物質が、どこに拡散したかを把握するのが重要。拡散するから危険だと決めつけることも、十分な測定をしないで危険でないと言うこともできない。

小高区大井の農業・西達雄さん   2016 年 6 月 南相馬市取材 その 3

今回の福島県南相馬市小高区取材では、震災後 5 年の区切りをつけて前に踏み出そうとする人が多くいると感じた。

西さんの取材は 2012 年から続けており、以下のビデオを公開中。
「 南相馬市小高区の西さんと記念碑 」

海に近い大井地区の住民である西さんは、自宅は無事であったものの原発災害のため避難中である。

以前の取材では、震災で亡くなった農業仲間のことは話さなかった。
5 年という年月のためか、慰霊碑を建てられたからか、西さんの内面で区切りがついたのか、数年来の取材で初めて仲間のことを語ってくれた。
これだけの時間があって、ようやく次の一歩を踏み出せたのかもしれない。
5 年間のあいだ、仲間に対するどれだけの思いを持ち続けていたのか。西さんの抱えていたものの重さを考えた。

取材 : 五井正明、渡辺裕一

※ このビデオは 6 月の南相馬取材その 3 となる

既に公開した取材ビデオ

2016 年 6 月南相馬市取材
    その 1 : 避難解除が近い小高区を南相馬ひばりFMの今野さんと歩く
    その 2 : 南相馬ひばりFMについてチーフ今野さんに聞く

2016 年 6 月 南相馬市取材

2016 年 6 月 11 日の南相馬取材を前後編 2 本のビデオにした。できれば順番に見ていただきたい。

南相馬ひばり FM の今野さんと、小高区で合流することになったので、今野さんがいろんな人に会うのを追いかけた。

その 1 の前編では、ふたりの話を紹介。どちらの話も東電社員がらみの話だ。現地で東電社員に接する人達の実感がこもっている。

避難解除が近い小高区を南相馬ひばり FM の今野さんと歩く

その 2 の後編では、南相馬ひばりFMについて今野さんに聞いた。

ひばり FM は南相馬市から運営資金を得ている。市からは、災害時の緊急対応を評価されていて、それが放送局の継続につながっているそうだ。

今野さんの話をうかがっていて、ひばり FM について考えるとき、肝に銘じなくてはいけないと思ったことがあった。

南相馬ひばりFMは日常的なトーク番組は多い。が、そもそも「 臨時災害放送局 」。深夜であっても災害があれば、緊急対応のために局に駆けつける。原発災害は決して終わっていないから、福島第一原子力発電所で何か起これば、スタッフは緊急対応することになる。
南相馬ひばり FM のスタッフがやっているのは、そんな仕事なのだ。

南相馬ひばり FM についてチーフ今野さんに聞く

今野さんは、今後、南相馬ひばり FM が終了しても、地元で経験を活かして働きたいと語った。

速報 : 避難解除直前の南相馬市小高区

2016 年 6 月 11 日の南相馬市小高区の取材速報です。

避難解除は 7 月 12 日ですが、それよりも前に申請をして「 準備宿泊 」をしている人 ( 実質的に住んでいる人 ) に話を伺いました。

小高区は、震災後のゴーストタウンだった様子に比べ、人が住む気配が感じられました。倒壊した建物が撤去され、人や車が行き交い、修理中の家を多く見かけます。それだけでも住まう気配がします。以前の人口の 2 割しか戻らないだろうという話も聞きましたが、その人口で十分成り立つと言う方もいました。

同行した五井さんは「 自分の故郷のさびれた様子より、よっぽど町な印象です。 」とのことでした。

取材 : いま私たち市民にできることプロジェクト 五井・渡辺 ( 2016 年 6 月 11 日 )

速報 : 福島県二本松市のホットスポット

2016 年 6 月 10 日の取材速報です。福島県の二本松市杉田川沿いにあるホットスポットを計測。地上 10 センチで 10.2 μSv/h でした。川沿いの道は市道で、管理する二本松市土木課に連絡。

除染が決まれば連絡くれるとのこと。除染が完了したら続報を流します。

取材 : いま私たち市民にできることプロジェクト 五井・渡辺 ( 2016 年 6 月 10 日 )

福島から見て、東京はどうなの?

福島県相馬市に拠点があるNPO法人野馬土の三浦さん。南相馬市小高区で農業をしていましたが、原子力災害で避難。フランスや沖縄に避難しやり直す機会もあったそうですが「ここで福島から逃げたら一生後悔する」と、あえて福島に留まることを選んだそうです。

三浦さんのスルドク痛烈なお話し、ぜひ聞いて下さい。

野馬土の被災地ツアー申し込みは:http://projetnomado.velvet.jp/

東京電力の大きな罪は忘れてはなんないし、後世に残すべき : 大堀相馬焼協同組合理事長の半谷秀辰さん

帰還困難区域である浪江町大堀から避難している大堀相馬焼協同組合理事長の半谷さん。2013 年 1 月の取材以来、­2 度目の取材でした。

前回の取材では、政府や東電に対する強い怒りを表明していました。今回の取材では、怒­りはありつつ、ある種の「あきらめ」を持たれていると感じました。ふるさと大堀には、­自分が生きている間に住むことはできない ...

被災した方々に原発災害の責はありません。しかし、時間経過とともに、その方々に冷酷­な現実の受け入れが強いられています。

一方で、ふるさとへの思いは、時間経過に伴い強くなったそうです。
「やっぱり、本当にいいふるさとだったからなあ」
二本松市で買った中古住宅は、ふるさとの家と似た場所にある、似たような家です。

50 年後・100 年後へのメッセージを聞きました。
「東京電力の大きな罪は、忘れてはなんないし、後世に残すべき。地震はしょうがねえと­思うしかないが、(人災の)原発事故だけは許してはなんない、ということは憶えておか­なくちゃなんない」

取材 : いま私たち市民にできることプロジェクト 渡辺裕一 ( 2015 年 5 月 )

釣った魚にエサはやらない : 福島県大熊町が除染廃棄物を受け入れ

2015 年 2 月 25 日、大熊町、双葉町、福島県が中間貯蔵施設への除染廃棄物搬入の受け入れを表明。この日、大熊町の現地事務所を取材した。

「 除染が進まない。東電や国が今まで除染にかけた金を、町に渡していたら、もう終わっていたかもしれない 」「 貯蔵期限の 30 年後、別な場所が廃棄物を引き受けるとは思えない 」「 中間貯蔵施設は切り札。事業が進んでしまう前に、町の復興のための約束を確保・進展させるべき。釣った魚にエサはやらないのだから 」

国と現地自治体の間では、したたかな駆け引きが続くが、時間が経つほど帰還をあきらめる人が増え、風化が進み、現地自治体は不利になっていく。

NPO 法人大熊町ふるさと応援隊の事務局長である川嶋茂雄さんの案内で現地を訪ねた。

[お知らせ] NPO 法人大熊町ふるさと応援隊の福島・大熊町スタディツアー

「 原発周辺のありのままの現状を知ってほしい 」
NPO 法人大熊町ふるさと応援隊の福島・大熊町スタディツアー

現在参加者募集中!

東京発着 2015/4/26 (日) - 4/27 (月)
旅行代金 39,200 円 : 大人 お一人様 / 3 - 6 名、1 室利用時

★ ツアーのポイント ★
・ 現在も避難が続く大熊町の「 居住制限区域 」に入り、視察 ( 車窓、下車 )
・ 福島県各地に避難されている大熊町の方々と交流、意見交換
・ 大熊町小学校 ( 会津若松市 ) を訪問、子どもたちと交流

● 原発周辺のありのままの現状を知ってほしい
原発事故から、まもなく 4 年経とうとしています。
未だ避難区域に指定され戻ることのできない大熊町。

被害の実態を知ってもらい、復興への支援や理解を得たいと、NPO 法人大熊町ふるさと­応援隊がスタディツアーを企画しました。

宿泊が制限されている『 居住制限区域 』にも入り、福島第一原子力発電所へ冷却水を送っている坂­下ダムや、人気の無い町の現状を視察します。

また、避難先で活動する大熊町民の方々との交流を通して、学び、大熊町を応援するツア­ーです

お問い合わせ先 :
大熊町ふるさと­応援隊 : 090 - 6278 - 3981 ( 担当 : 川嶋 )

浪江町への被災地ツアーに参加 ( 2014 年 12 月 )

報告 : 高倉 浩樹

  12 月 20 日

  福島県相馬にある NPO 法人「野馬土」さんが行う被災地ツアーに参加しました。 国道 6 号線から外れて浪江町に入るには許可証が必要で、家々は地震直後の様相をそのまま残していました。外見上綺麗に見える家も、中はネズミなどに荒らされているそうです。

  海から 200 メートルくらいにある請戸小学校も廃墟と化したまま残っていました。窓も割れたまま、体育館の床は落ち、動物の糞の臭いか獣臭さがありました。

  そんな中、教室の黒板にはたくさんのメッセージが書かれていました。言葉だけでなく、こういったメッセージを受け取るということもとても大事なことだと思いました。

  案内をしてくれた野馬土の三浦さんは「ぜひ多くの人に来て見てもらいたい」と言っていました。自分の目で見て感じることがとても大切なことだと思いました。

  高倉







仮設住宅のクラフト会を訪ねて ( 2013 年 10 月 )

報告 : 森田 景子


※ 写真右端が森田景子、真ん中が手話通訳の菊池明実

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  1 人がクラフト趣味を持ったのがきっかけで、10 人集まり、やがて 25 人に増えました。

  冬は寒い、夏は暑い、4 畳半の狭い仮設住宅での生活。1 ヶ月 4 時間のみ許された帰宅。快適な生活ができなくて、ストレスを沢山抱え込んでいる人達を多く目にして衝撃を受けました。

  2011 年 3 月 11 日のままの気持で、大きな衝撃を受けたまま、3 年が経ちました。その一人一人の目に映った衝撃的な映像が見えてきて心が痛みました。冷えきったおにぎりの日々。通院の日々。多数のネズミに家の中あちこちをかじられている。農業ができず野菜を買うのも自腹の生活。それぞれ思わず目をつぶりたくなります。

  2 年後、仮設住宅から追い出されたらどうなるのだろうか。やっと見つけたクラフト会の仲間達と離れ離れになる不安や恐怖感を抱え込んでいる為に、未来に前向きに進めない状況にいます。

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  DNN ( 聞こえない人向けのネット放送 ) キャスターの立場を活かせるのは、今回、福島県の目に見えない放射能や原発から影響を受ける地域に実際に足を運んで住民の声を聞くことです。

  泣きたくなる深い悲しみを持っている人が今もいる事を DNN キャスターとして伝えたいと思います。

  2014 年 5 月 17 日に DNN 感謝祭があります。その時に、福島県クラフト会を展示したいと思っております。

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私たちにできることは、交流会の場を作ることです。

原発災害から避難した発達障害児らを支援する谷地ミヨ子さんの講演

NPO 法人 MM サポートセンター代表理事の谷地ミヨ子さん講演「 きちんと支援すれば困った子ではありません 」の記録ビデオです。 原発災害から避難した障がいを持つ子どもを支援するNPO 法人 ふよう土 2100の主催。

発達などに「 何らかの個別的配慮を必要とする人たち 」への支援をしてきた谷地さん。

自閉症だから偏食はしょうがないとあきらめるのでなく、苦手な食材をなくすために支援する。座っていられないではなく、座り続ける環境をつくって、根気強く子どもと向き合う。谷地さんのお話は、どんな立場の人が聞いても、参考になるでしょう。

障がい児と暮らす家族の負担が軽減され、障がいの種類に関わらず、子供たちが暮らしやすい地域になることが主催団体の願いです。

■ 日時・場所
取材日時 : 2014 年 3 月 5 日 (水) 14:00 - 16:00
場所 : 郡山市総合福祉センター3階技能習得室

■ 谷地ミヨ子さんのプロフィール

福島県田村郡都路村 ( 現 : 田村市 ) 出身。
南相馬市原町区内で学習塾の講師として、発達などに「 何らかの個別的配慮を必要とする人たち 」への支援を行う。

ADHD・LD・自閉症、不登校、言語発達遅滞等児への直接指導、発達検査、ペアレントトレーニング、保育・家庭・教育・福祉・医療の橋渡し的役割を担い、保育所・幼稚園・小・中・高への訪問指導も行う。論文等多数執筆。絵本の読み聞かせなど保護者への育児講演会や、教師等への発達障害に関する講演会等も多数行う。

NY からの支援・つるプロジェクト - 2014 -

報告 : 片桐 美樹  ( アーティスト・ニューヨーク在住 )

  今年は、今まで、作った鶴蔓を、3 箇所の公園に置いて、Tag に、311 に起こったこと、忘れないでというメッセージをつけて、持って行ってもらいました。

  とっても良い天気に恵まれて、コチラと、あちらの魂が一つになれたようでした。




















これまでの活動紹介 :
NY からの支援・つるプロジェクト
( 2011 年 9 月 20 日 BS11 「 INsideOUT 」内 放送 )

2013 年 11 月 9 日 被災地ツアー取材から

2013 年 11 月 9 日「 NPO ふよう土 2100 」の理事長・里見喜生さんのガイドする 被災地ツアー(スタディツアー) を取材した。この団体は、地元福島県いわき市や福島第一原発に近い富岡町へのツアーを実施している。

富岡町は原子力災害で全町民が避難しているが、2013 年 3 月に警戒区域再編が行われ、一部地域は日中のみ立入りできるようになった。14,385 人もの富岡町民は、未だ帰ることができない。この頃、ニュースではオリンピック東京開催が大きく報じられていた。


 楢葉町・シートに覆われた廃棄物


 現地団体「 NPO 法人ふよう土 2100 」のスタッフの方


 津波で破壊されたままの富岡駅


 ツアースタッフと取材参加者


 放置された、津波で流された漁船

当プロジェクトから参加した、手話通訳担当の菊池明美さんが、「 エッセイ詩 」という形で現地へ行った実感を綴った。


エッセイ詩『 いま私の考えること 』

菊池 明美
「 いま私たち市民にできること 」プロジェクト・手話担当

ツア-ガイドの声 沢山の人達が参加し見て頂きたい
そして その地区で販売している商品を買って頂きたい
それが復興に繋がる

ふと 帰宅して 直ぐにパソコンに座り 胸をえぐられる思い 悲しみ怒り 何とも言えない思いが

お湯が沸いた ガス消さないと・・・家族の一言が ・・・私を現実に戻す。。
一日 一日 今日で 二日が過ぎる ・・・

帰宅してすぐにパソコンに座り 打ちこみ始めたメ-ル 中途半端ですが そのまま 送ります




今帰宅

現地に行くたび 胸をえぐり取られる思いです
苦しい 苦しさを飛び越え 憤りを感じながら
全く変わらない状況 光景を目にする
語り部の人の声が 私の体に 怒り 悲しみ 憤り 悔しさ 同じ人間なのに獣 けだもの
震災の次の日 空き巣 死体から物を盗み取る 何故そんな事が出来るのだろう!!
絞り出すような声のトオーンが低くなる

親戚のマサノさん 藤田マサノさん 福島に仮設・借り上げアパ-トに住む
今福島に来ています
マサノさんの反応
それはそれは御苦労さま 俺達より 東京の人達が騒いでくれる おれらももっと勉強しなくちゃな!!!!



二日過ぎた 感想

戻ってきて 何も変わらない 自分の生活があり 仕事 必死で生きている
自分 私達
いつも思う事ですが
私が もし マサノさん 藤田マサノさんがいなかったら。。。
母の実家が 福島南相馬 でなかったら参加しただろうか??
ふと周りを見ても 福島のふ・・の・じ・も・でない
風化というより 自分とは関係ない
朝から パジャマ姿で 井戸端会議 隣の人の悪口 夫の悪口 に 無我夢中
現実です


3月9日 母の月命日 お墓参りを辞め 今回のツア-に参加致しました
亡き母が背中を押してくれたような気が致します。。

あいまいな 会話 あいまいな 福島 ボランティア・・
貴方は偽物ボランティア・・私の友が 言われた言葉
この言葉に ショックを受けている 友

私だったら ・・・ 自分の中で 身内がいなかったら 参加していただろうか????疑問です
友は 参加しなくなりました

藤田マサノさんの言葉
小さくなって 生きている 周りの目を気にして 生きている
父ちゃんが認知症で この人を 何とか 面倒を見なくてはいけない
おらは 戻りたい 生まれた 所 住んでいた 所に 戻りたい ・・・・
命あるだけ もうけもんだ・・

福島の人の声が 出でこない 出ていても小さな声
福島住人の声 叫びが無い
東京からわざわざ きて おれら 何にも知らない 勉強しなくちゃな
東京の人達から いろいろ教わる 。。。
藤田マサノさんの 声・・・

当事者が語らない声を 外部が騒いでも ・・・・・・
プラカ-ド 座り込み 絶食 ・・・訳分かりませんが
福島住民が 何故 行動を起こさないのか???

話は飛びますが  手話の世界
知的障害者を持つ親の会 スクラム組み施設が沢山建てられる 予算も確保できる
盲 身体障害者車いす 外的障害の人達の生の声が大きい
聾者の声が 届かない それは 聾者の人達が騒がない 外見からみて障害者とは分からない
本人も積極的に表に表さない・・

周りが騒いでも 当事者達の意識
藤田マサノさんの声 いつも言う声
周りの人たちから いろいろ教わる ご苦労さんです

今回参加して感じた事 マサノさんがいつも語る言葉と同じ事を感じました
住民が騒がない 一部の人達が 活動する

私達外部 当事者でないものが これも一部ですが 動く 活動する
何か少し違うような気がする。。。

今回のツア-で 福島の物品物買ってください それも支援復興の一つです。。。
この様に言っていた

何か少し違う 少し ずれが見える
何か??わかりませんが・・・

よそ者  復興の為お金を落として・・・ほしい・・・
一体化 ではなく よそ者
温度差を感じました

親戚藤田マサノさんを通して 本当の福島の姿が見える
今わたしがしている行動 ・・
マサノさんとの 会話の温度差 ・・を物凄く感じる
今私達市民にできること。。。この事を もっと 深く考えたい



今回 参加して 感じた事

一日 一日 暦がめくる
現実に戻される 今私が出来ること
家族のご飯 仏壇に御線香 仕事依頼に集中する

ツナミから2年8か月
福島の人達と 一緒に 手をつなぎ 輪をつくり
福島の人たちだけでなく 東日本大震災被害にあった人達とボランティア活動に
参加する人の輪
手をつなぎ 表に 見せる 表す 。。
それが 次に繋ぐような気がする 。。。

今日これから 着付けの練習 明日から叙勲の仕事 今私の現実です。。。

本当に 我々に 望んでいる事とは な に か ??
考えたい。。。。。
藤田マサノさんの 声 生の声 と共に 考えたい

まとまりません
現場に行くと 胸がかきむしられ苦しくなる思い これも現実です
人がいない 街 家が見るも無残な姿 言葉に出来ない
 船が畑に  車が破壊
パトカ-がここまで潰れるのか と思うぐらい ペチャンコ
最後の最後まで 住民に声をかけ 亡くなった 。。。
同業者の人らしい方達と遭遇する
皆無言 手を合わせ 無言で帰る
んんんんんん 声にならない 体の中の叫び
国 日本の国 私達を 見て見ぬ振りしないで
ここに来て 手を合わせて
国会議員の人の姿がない

最後に言いたい
目を離さず しっかり 見続けたい
一つ学んだ事 国は 国民を見ていない

菊池明実

Tsunami hit Soma Futaba fishermen's corporative (Fukushima)

A member of the staff who was hit by Tsunami at the building of Soma Futaba fisherman’s corporative.

The Tohoku Earthquake and Tsunami devastated the Pacific coast of north-eastern Japan on the 11th of March, 2011. Soma Futaba fisherman’s corporative in Matsukawaura is one of the organizations that is tragically damaged by Tsunami. In this video clip, the story of the earthquake and tsunami is told by Mr. Ito, a member of staff who was hit by the tsunami whilst in the Soma Futaba fisherman’s cooperative building. His experience of that day was a narrow escape from death. In conjunction with Ito’s narration, this video shows badly damaged cities, buildings and fishing boats. He insists that the most important thing to save your life in the case of natural disasters is to be evacuated immediately.

Translation and description by Ms. Ibuki Kamiya.

[ Appearance ]
Kenji Ito

[ Interview date ]
January 28, 2013

相馬漁港の建物にて津波にあった職員

2011 年 3 月 11 日の東日本大震災にて、東北太平洋側の地域が壊滅的な被害を受けました。松川浦に位置する相馬双葉漁協も甚大な被害を受けました。このビデオクリップは相馬双葉漁協の職員であった伊藤さんによる語り部で構成されております。伊藤さんは漁協の建物内で津波の被害にあいました。まさに九死に一生を得るような体験であったと話されています。伊藤さんのガイドにより、被害にあった市街、建物、船等が紹介されております。また伊藤さんは、自然災害にあたり最も重要なことはすぐに避難することだと主張しております。

語り部出演 : 伊藤健治
取材日 : 2013 年 1 月 28 日
翻訳 : 神林いぶき

いま私たち市民にできることプロジェクト
What Can We Do Now?

2013 年 7 月 26 日 「南相馬市小高区・津波と原発の二重被災地の声」
生中継ダイジェスト版

もう、忘れている? 聞いて下さい。もし自分が、この 1 万 1 千人のように放置されたら、、、

原発 20 キロ圏、旧警戒区域で、原発事故後の 1 年間は立入りも禁止された小高区。 津波に流された車が放置されるなど、いまだガレキの片付けも終わっていません。 区内での寝泊まりは禁止で、11,506 人 ( 今年 6 月の登録人口 ) の全員が、仮設住宅などに避難しています。

住民の声を聞いて下さい。

「復興が進まず、破壊家屋を見続け、避難終了も見えない状況が、県外に知られていない」

「未だに、このような宙ぶらりん状況で放置されているのは、ひどい怠慢」

「子どもを抱えて、遊び場所に悩む」

「生活インフラが整わず、帰還をあきらめる人も増えている」

「当たり前の生きている人間の姿も知ってほしい、悲惨なだけでなく、楽しみを求めて生活を送ってもいる」

取材 :
いま私たち市民にできることプロジェクト ( http://www.dekiru.or.jp/ )

日時 :
2013 年 7 月 26 日

場所 :
南相馬市小高区、小高区役所カフェいっぷくや

総尺 :
ダイジェスト版 22 分半弱
( 編集無しの Ustream 版は http://ustre.am/127dx )

出演 :
今野聡さん(南相馬ひばりFMチーフディレクター
横山邦彦さん(71)、益子(66)さん夫妻 ( 小高区浦尻、津波で自宅全壊 )
原由香さん ( 小高区の 3 児の母 )

スタッフ :
渡辺、富樫 ( 以前出演した高校生 )、伊藤 ( 今回初参加の新助っ人 )


文章 : 事務局 渡辺裕一

2013 年 5 月 4 日, 5 日 南相馬レポート

2013 年 5 月 4 日, 5 日 南相馬レポート

髙倉 浩樹   

一年ぶりの南相馬でした。30km 圏内は一年前と大きな変化はなく、時間だけが過ぎているだけなのだろうかと思ってしまいます。

小高区の様子 1
小高区の様子 2
小高区の様子 2

今回は小高区の西さんからお話をお聞きしました。西さんは警戒区域だった小高区から避難して、現在仮設住宅で奥さんと暮らしています。僕らもそこでお話を聞きました。

小高という町は歴史や文化をとても大事にしていて、小高に誇りを持っている人たちが住んでいる土地だと思いました。小高駅前には「歴史の町」と大きな案内図があります。相馬野馬追や古墳 ( 岩壁にある洞窟みたいなもの ) なんかもそうですが、歴史的な資料が大変多いというのがここの特徴ではないでしょうか。

今回お話を伺った西さんは、大字(おおあざ)規模の資料としてまとめた分厚い本を編纂されていました。市規模、町規模ではなく大字規模というのは初めて見ました。しかも分厚いのです。

すべてを読むことは出来ていないのですが、文献だけでなく昭和になるかならないかくらいの頃の洪水時の写真なんかも載っていて非常に興味をそそられました。

西さん自身、ノートに自分で集めた情報なんかを書き溜めているのですが 30 冊近くになるということでした。自分たちの土地を愛して誇りを持って、後世に伝えようということは今回の震災においてとても大切なことだと思います。何が正しくて何が悪いかじゃなくて、その場所で起こったことを正確に残すことは、その土地の人たちが伝えその子どもたちが受け継いでゆくものだと感じました。

低地にある田畑や家屋はすべて津波に流されていました。小高区には今も壊れた車やガードレール、折れた電柱など瓦礫が残っています。塩を浴びて立ち枯れた海岸沿いの大木とその周りに生い茂る雑草。この日の海は綺麗でした。

振り返れば、荒涼とした景色の後ろに、これまた美しい山々が連なっています。

被災した場所がどのようなところなのか。そこには人がいて、町があって、美しい景色があって、今に至る歴史があって。そこに帰れないという現状はとても重く悲しいことだと思います。

3 月 11 日のことを忘れないためにも、被災された町々のことをよく知ることが大事なのだと思います。

私は震災前のこの場所の景色を知りません。ですが、またここで人が生活をし、歴史を刻んでいく景色を見たいと思います。

「南相馬市小高区の西さんと記念碑」

【 取材スタッフ 】
      取材 : 高倉 浩樹   渡辺 裕一
      ( いま私たち市民にできること 市民リポーター )

Taking refuge from my home town, Fukushima

浪江町から避難した大堀相馬焼組合長の半谷さん : 英語版

On the 11th of March, 2011, the Tohoku Earthquake and Tsunami devastated the Pacific coast of north-eastern Japan. Although a few years have passed since then, there are still many people who have not been able to return to their home town. Because of radioactive contamination, the area close to the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant is still evacuated. Besides, reconstruction of those damaged area has been much behind even now.

In this video clip, a story telling of the earthquake is implemented by Mr. Hidetatsu Hangai, the leader of co-operative Union of the Obori Soma ware. In the town of Namie in Fukushima prefecture, the area where is contaminated by radioactivity due to the nuclear power plant accident, there were over 20 potters. Currently, they have been taking refuge in the city of Nihonmatstsu in Fukushima. Mr. Hangai talks about his experiences about the earthquake disaster, how he was evacuated and how he is continuing pottery as the union leader in the entirely new place, having many difficulties in his new life.

Translation and description by Ms. Ibuki Kamiya.

2013 年 7 月 予定 「発達障害を持つ子ども支援施設での上映会」

  いま私たち市民にできることプロジェクトが、2011年から取材をしてきた「 S-空間(エススペース)」。 今年の春、元コンビニの建物から新施設に移って活動を拡大します。

  「 S-空間 」 と代表の谷地先生を応援する主旨で、子どもや関係者向けの上映会を行います。 関係者向け上映なので、参加したい方はメールでご連絡下さい。

S-空間の様子 1
S-空間の様子 2

「 S-空間 」を取材した映像  ( 2011/12/20 - BS11 にてテレビ放映 )

原発被災と発達障害を持つ子どもへの療育・訓練の現場報告

森 透  ( 2012/10/20 取材 )    

    発達障害を持つ子どもに療育・訓練を行う谷地(やち)ミヨ子さんの S-空間。原発被災によって福島県南相馬市から宮城県名取市に避難し、名取市の JR 館腰駅前の元コンビニ店舗を改装して、子どもたちの受け入れを続けている。通ってくるのは小学生と中学生。以前からの南相馬から来る子、そして名取の子どもたちが加わった。

    取材した 2012 年 10 月 20 日 (土) 朝 10 時、親に連れられて子どもたちが十数人やってきた。お遊戯をするかと思えば歌や踊りはプログラムにはない。谷地さんによる絵本の読み聞かせから始まり、子ども同士が組んで「まねっこあそび」や「うんどうあそび」など体を動かしたり、手作業をする。読み聞かせは、谷地さんが絵本を 2 冊手に取って、「どっちがいい?」と問いかける。選ぶ能力の訓練である。プログラム一つひとつに療育・訓練としての緻密な設計が施されている。

    S-空間は学校のない土日に開くのを基本としているが、平日に来る子もいる。学校に行くよりも、S-空間で療育・訓練を受けさせたいと保護者が考えるからだ。学校としてはもちろん、学校のある日は学校に通うべきという立場にある。

    子どもたちが来ている間だけが谷地さんの子ども対応時間ではない。昼夜を問わず谷地さんの携帯が鳴り、「晩御飯を食べさせようとして子どもがぐずって」など親からの助けてくださいコールが届く。谷地さんは、電話口で子どもに穏やかに語りかける。すると、子どもは気持ちを落ち着かせ、ご飯を食べるという。親たちは谷地さんに全幅の信頼を寄せている。

    こうした施設が他にはほとんどない。谷地さんの水準を他では期待できないにせよ、そもそも療育・訓練の場がない。そのことも発達障害を持つ子どもたちの親がS-空間を頼りにし、名取に移ってなお南相馬の子どもたちが通ってくる大きな理由の一つだ。

    若手の育成にも谷地さんは力を注ぎ、「発達支援・みんなのための勉強会」を毎月 1 回、夜に開いている。発達障害は多様であり、その子がどういう障害を持つのかを見極めるにはどうしたらよいかを事例に基づいて説明する。また、食べ物を噛まずに飲み込んでしまう子を何年にもわたって訓練した記録映像を見せる。2012 年 10 月 19 日 (金)、受講者は 4 人だった。より多くの人々が学ぶべきである。

    原発被害は、社会の脆弱な部分に大きく覆いかぶさってくる。発達障害を持つ子どもたちと療育・訓練の担い手の現状に、もっと社会、行政の目が注がれるべきであろう。

- 2013 年 6 月 29 日最終更新 -  

2013 年 3 月 17 日「浪江町から避難した大堀相馬焼組合の半谷さん」

3 月 17 日(日)、2 年間の活動をふりかえる過去作品の上映会と、1 月に取材した「語り部」映像の手話、文字通訳の収録を行いました。

映像に登場するのは、大堀相馬焼組合理事長の半谷秀辰さんです。原発事故後、浪江町大堀で 300 年以上続いた大堀相馬焼の窯元は全て避難。半谷さんは二本松市で仮工房建設に奮闘しました。昨年夏にできた工房は、組合の窯元たちが共同で使用しています。

半谷さんは、福島県登録の「震災語り部」としても活動しており、詳しい体験や思いを語っていただきました。

2013 年 3 月 16 日 「 相馬双葉漁業組合の津波被害 」

相馬双葉漁業組合の津波被害・元職員で震災語り部の伊藤さん

照木 篤子  ( 2013/1/28 取材 )    

今回は、相馬市松川浦「相馬双葉漁業組合」元職員で退職後に語り部として活動をされている、伊藤健治さんから、ご自身の九死に一生を得た凄まじい被災体験と、津波被害で倒壊した漁協組合の漁場と事務所、漁船等をご案内いただきながらお話していただきました。

伊藤さんが語り部をしながら必ず伝えること、それは「とにかく自然災害に遭遇したら行政の避難指示に絶対従う」これに尽きるのだと言います。自己判断で命を落とした人があまりにも多かったからだそうです。家や物ではなく、人命が第一という基本に立ち、指示通り避難さえしていれば、469 名もの尊い命が亡くならずに済んだ筈だとも。

被災者の後処理を通じ、被害に遭う人たちの行動パターンが浮き彫りになりました。

・逃げないという誤った選択をして被災
・津波が頭になく避難勧告も理解できずに被災
・避難先から戻ってきたところで被災

生還した当事者の語りを聞き、めちゃくちゃになった漁協の建物を歩きながら自然の猛威の痕跡をたどる。この衝撃体験は、未来を大きく変える影響力を持ちました。漁業関係者は勿論、多くの方に体験してもらえたらと感じました。

【 出演 】 伊藤 健治 ( 元相馬双葉漁業組合員、語り部 )

【 取材スタッフ 】
      撮影担当 : 渡辺 ( いま私たち市民にできること 市民リポーター )
      取材報告 : 照木 篤子・五十嵐 貴子 ( 同上 )
      字幕 : パソコン文字通訳者会 ubiquitous

February 28, 2012. FUKUSHIMA:What Can We Do Now?



Broadcast by citizens
"FUKUSHIMA : What Can We Do Now?"
The voices of children and young women who will inherit the negative legacy.

It was broadcast on February 28, 2012.

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In the wake of the Great East Earthquake and nuclear power plant accident on March 11th, 2011, a number of citizen groups developed detailed reconstruction plan through discussions from their standpoints and set up a program to send the news report and transmit information. The public access program, which broadcast voices of citizens, started on April 5th, with the cooperation from BS11, one of the commercial satellite broadcast channels.

Once a week, we broadcast the voices of victims and citizens working in disaster areas on a national network. Their broadcasting policy focuses on giving direct voices to people who rarely have had no opportunities, such as children, women, deaf people and foreigners. In addition to that, all programs provide sign language and subtitles, which is unusual for mass media in Japan. Since its inception, it has given a huge impact on the viewers.

All the production works, such as reporting, editing, on-camera appearances and providing translations to people with visual and hearing disabilities are done by volunteers. This broadcasting continued until March 2012.

2013 年 2 月 1 日 「 対談 柳美里 × 南相馬ひばり FM 今野聡 」



2013 年 2 月 1 日、東京の女子栄養大学で行われた、作家・柳美里さんと、南相馬ひばり FM 今野聡さんのトーク「 小さなラジオ局の伝える小さな声 」。主催は日本国際ボランティアセンター (JVC)。

2012 年 3 月から、柳美里さんは、南相馬にある小さなFM放送局で「 柳美里のひとりとふたり 」という番組を始めた。この 1 年間、様々な人の話を聞くため市内各地に出張して番組収録し、現地に住む人の声を伝え続けてきた。番組制作スタッフは今野さん 1 人だけ、つまり柳美里さんと 2 人だけで番組を制作している。

2013 年 1 月 15 日 「 3.11 を語り継ぐ夜 第 1 部 佐藤久美子さん 」

2012 年 11 月 18 日 名取市周辺から中高校生による生中継

2012 年 11 月 18 日、宮城県仙台市荒浜地区と名取市閖上 ( ゆりあげ ) から Ustream 生中継を行いました。今回は中高生が中心になって、取材先手配、運営を行いました。

現地には、多くの人に被災の経験を伝えたいという思いから、「 語り部 」として、つらい経験を語る活動をされている方々がいました。

生中継の前半は、仙台市と名取市周辺で仙台中央タクシーが始めた取り組み「 語り部タクシー 」で被災地の様々な現場をタクシーで移動しながら行いました。自身の体験も交え、被災者でもある運転手の佐藤久美子さんに案内していただきます。

後半は閖上 ( ゆりあげ ) 中学校遺族会代表の丹野祐子さんのお話しを伺います。

2012 年 10 月 21 日 「 楢葉町で GPS 連動線量記録アプリをテスト 」

2012 年 10 月 21 日、警戒区域が解除されたばかりの楢葉町に入った。

福島第一原発は、未だに危険な状態であり、原発事故は終わっていない。安全が確保されなければ復興や帰還の話は始まらないのだ。

【 アプリ作成者の五井さんのコメント 】
  今回の現地に伺う目的の 1 つは新たに構築した「 線量値の自動集録ソフト 」の動作確認です。これは Android タブレットを使い、線量計の線量値とその時の位置座標を GPS から取得し、移動しながら情報を蓄積していくためのものです。

地元の人たちが置かれている状況がどのようなものであるのか、人の負荷を軽減しつつ、しかも広範囲に計測するために作成しました。集録日時、線量値、そして位置情報を自動的に記録できます。

線量計は高感度のものにつなぎ直すことによってホットスポットの捜索という目的にも使えるようになっています。計測したデータはのちほど地図上で確認することができます。

今後は広く誰にでも公開できる方法を検討しています。

2012 年 10 月 21 日 「 真っ黄色の町・楢葉町 」

2012 年 10 月 21 日、警戒区域が解除されたばかりの楢葉町に入った。放置されていた田畑は一面セイタカアワダチソウの花で埋め尽くされていた。町が真っ黄色だ。

いわき市の仮設住宅に避難している夫婦に出会った。8 月 10 日から 1 年半ぶりに町内に立ち入れるようになったが、日中しか滞在できない。夫婦は仮設住宅から毎日のように通っているそうだ。

福島第一原発は、未だに危険な状態であり、住民はそれをよく知っている。原発事故は終わっていない。安全が確保されなければ復興や帰還の話は始まらないのだ。

2012 年 9 月 7 日 「 南相馬・仮設住宅から生の声 」 ダイジェスト 1, 2



2012 年 9 月 7 日、福島県南相馬市鹿島区牛河内第二応急仮設住宅集会場から被災者の生の声を Ustream で配信しました。

こちらの仮設住宅は南相馬市小高区に住まれていた方がほとんどです。小高区は原発事故による放射能の影響で居住が制限されていて、家に帰ることは出来ても住むことは出来ません。

震災から 1 年半を迎え、原発事故による放射能の影響で先の見えない避難生活や故郷を思う気持ちなどそれぞれの思いを語ってもらいました。

「 現在置かれている状況について 」

井戸川さん
   仮設住宅で楽しみを感じている一方で、長期化する避難生活に対する不安や自宅に対する思いも強い。

梅田さん
   かつて市議で原子力対策特別委員を務める。集落全体で故郷に戻る必要性を感じている。

門馬さん
   県外に避難した経験を持つ。避難先での生活基盤の形成により、故郷に戻りたくても戻れなくなってしまう。

村井さん
   仮設住宅の副自治会長を務める。教育について明確な指針を提示する必要性を訴える。

木幡田さん
   仮設住宅で女性部の役員を務める。震災直後の様子と原発事故により離れ離れになっている家族への思い。

2012 年 6 月 3 日 「 津波と原発事故により二重被災したお宅 」

2012 年 5 月 5 日 「 みんな共和国 あっくん写真集 」

2012 年 5 月 5 日、南相馬市で行われた子どもイベント「 みんな共和国 」。

その隅っこで iPod touch を子どもに貸し出し、ビデオや写真を撮ってもらいました。あっくんが撮った写真の連続動画です。

2012 年 5 月 5 日 「 みんな共和国 さとる写真集 」

2012 年 5 月 5 日、南相馬市で行われた子どもイベント「 みんな共和国 」。

その隅っこで iPod touch を子どもに貸し出し、ビデオや写真を撮ってもらいました。撮った写真の枚数でチャンピオンのさとる。その 400 枚超の写真を連続で見てください。すごい!

2012 年 4 月 16 日 「 南相馬盗難 ATM や浪江町との境界 」

2012 年 4 月 16 日、福島県南相馬市では、原発事故 20 キロ圏で立入が制限されていた警戒区域が解除された。ほとんどのエリアは自由に立ち入ることができるようになる。

小高区福岡のコンビニエンスストアは、ATM が破壊されていた。おそらく震災後間もなくであろう、生々しい盗難状況がそのまま残っていた。

国道 6 号線では新しいゲートで新潟県警から応援で来ている警察官が検問していた。以前の 20 キロラインの検問所では線量は 0.3 から 0.4 マイクロシーベルト毎時。新しい検問所では 0.5 マイクロシーベルト毎時くらい。警察官はおおむね 2 週間で交代するらしい。

隣の浪江町との境界で、海に近い「相馬双葉境の松」がある道路上には新品のバリケードが置かれていた。境の松の下では 1.21 マイクロシーベルト毎時。近辺ではマスクを着用した民間パトロールが巡回していた。

2012 年 4 月 16 日 「 南相馬小高区村上にて 人間てのは懲りない 」

2012 年 4 月 16 日、福島県南相馬市では、原発事故 20 キロ圏で立入が制限されていた警戒区域が解除された。ほとんどのエリアは自由に立ち入ることができるようになる。

小高区村上­で、福島市に避難し、自宅周辺を見に来た方に話を聞いた。

「しょうがないんだな、、、人間てのは懲りないんだから、、、」

2012 年 4 月 16 日 「 南相馬大迫にて夫婦と墓 」

2012 年 4 月 16 日、福島県南相馬市では、原発事故 20 キロ圏で立入が制限されていた警戒区域が解除された。ほとんどのエリアは自由に立ち入ることができるようになる。津波の被害が大きかった海岸よりの原町区小浜大迫で、墓を見に来ていたご夫婦に話を聞いた。

「この 1 年で帰宅できたのは 3 回だけ、それも 1 〜 2 時間。ようやく長い時間帰宅することができました」

解除エリアで会ったのは、ほとんど高年齢の方だった。

2012 年 4 月 6 日 「 首相官邸前の佐藤幸子さん 」

2012年 4 月 6 日、大飯原発再稼働反対・首相官邸前行動にて。
   子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク代表の佐藤幸子さんのアピール。

2012 年 3 月 13 日 「 ガレキじゃないモノ 」

2012 年 3 月 13 日、気仙沼にあるリアス・アーク美術館を取材。学芸員の山内宏泰さんが多忙な中で応じてくれた。

被災者でない者にとっては、「ガレキではない大切なモノ」と言われてもなかなか実感できないかもしれない...

そんな人にぜひ、山内さんの話を聞いてほしい。

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